落合淳思先生の第一の手紙の主文

(本手紙は落合先生に贈呈した小著に対する返答です。また、AからEは先生の意向により全文ではなく部分引用です)

 

 文献や考古学資料のみならず、音韻学・古文字学・気象学・人類学など、多様な分野から論述されており、大変興味深く拝読いたしました。近年の歴史学界では微に入り細を穿つような研究が重んじられており、総合的な研究が軽視されているので、貴重な知見であると思います。

 

 ただ、本書の議論には大きな欠点があるように感じられます。

 渡航者の事故率を二割としていますが、後の遣唐使ですら度々遭難しているのに、丸木舟で海洋を横断することがそのように簡単だったとは思われません。しかも、そのうちの八割がまったく別の特定の地域(北九州)に集中して到達するなどは、想定不可能です。(A)

 「汙」と「倭」の発音が近いのであれば、誤記・誤写や仮借(一種の当て字)の可能性もあります。(B)

 中国からの移住という経験が『古事記』や『日本書紀』、あるいは各地の伝説に全く見えないのは不可思議です。(C)

 近年の考古学研究では、北部九州における稲作の開始は紀元前五〇〇年ごろとする説が有力視されていると聞いています。紀元前三世紀末の始皇帝支配により、中国内部の集団が稲作を伴って移住したとする説は整合性が保てなくなります。(D)

 

 一方で、淮水流域の九夷の記述などについては非常に面白いと感じました。淮水流域の野蛮視された集団に焦点を絞ってリライトするのがよいのではないかと思います。

 例えば、このようなものは如何でしょうか。【タイトル『古代中国の淮水東夷』/第一章 西周代の淮夷/第二章 孔子と九夷/第三章 始皇帝と東夷/第四章 東夷文化と日本文化/第五章 東夷の日本渡来/第六章 その後の淮水東夷】(E)

 

 そのほか、何点か気になった部分があるので述べます。

 甲骨文字の「方」は、直接的には「敵対勢力」を指します。勢力の大小には関わらないので、敵対勢力が雄族であっても小勢力であっても「方」と呼称されます。西周金文については数量が少ないので確実ではありませんが、甲骨文字と同じであれば「于方雷」は「于という敵対勢力の〔首長である〕雷という人物」ということになります。(F)

 藤堂明保の説については、上古音の復元という点では定評がありますが、字源説については誤りが非常に多くあります。詳しくは、拙著『甲骨文字小辞典』または明治書院『月刊 日本語学』二〇一一年一〇月号をご覧下さい。(G)

 また、『史記』は前漢中期の著作であり、同時代の記述以外には誤解や創作された説話が大量に混入しています。例えば、徐福はおそらく後代の小説であり、また白起が趙兵四十五万を生き埋めにしたというのも秦による誇張発表です。詳しくは、拙著『古代中国の虚像と実像』をご覧下さい。(H)

 始皇帝の政治が苛烈であり、労役について遅刻が死刑であったというのも、『史記』など後代の解釈です。同時代の法律が雲夢県の睡虎地から出土(睡虎地秦簡)していますが、それによれば、労役の遅刻は五日までは厳重注意であり、それを超えても罰金刑であり、死刑はもちろんのこと、肉刑(入れ墨や鼻削ぎなど)にも該当しませんでした。(I)

 

 以上です。

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