小生の返書主文
お忙しいなか、拙著の感想を寄せていただき、ありがとうございます。先生の批判疑問に対する回答と新たな質問を送らせていただきます。論評の価値ありと認めていただいたと、感謝しています。
(A)
海難事故率を二割としたのは、問題になるとは思っていましたが、気象条件などからそのような結論になりました。「後の遣唐使ですら度々遭難しているのに、丸木舟で海洋を横断することがそのように簡単だったとは思われません」とありますのは、わたしも二二九頁で森浩一氏の発言と「余りにギャップが大きくて戸惑うほどである。鑑真の苦難や遣唐使船の遭難の話が急に現実味を帯びてきた」としており、先生の認識とそれほどの差はないと思っています。「そのうちの八割がまったく別の特定の地域(北九州)に集中して到達するなどは、想定不可能です」の部分は、わたしの想定は「北九州か山陰地方、朝鮮半島南部」で、引用した『海洋科学』の海流の図にあるように、否応なく海流に乗って流されてきたわけです。
(B)
汙人=倭人というのは『後漢書』の范曄の説です。先生は于と汙の発音が近いだけでは同一とすることはできないとの意見と思われますが、『三国志』の目録の僂韓も含めて、意味も同じなのです。
(C)
この問題は次作予定の『日本人のルーツ倭韓』で「第五章 倭の五王は果たして天皇であったのか」や「第六章 五三一年、倭韓の滅亡」でとりあげる点です。「倭韓」とは、朝鮮半島南部に上陸した倭人の末裔、帥升や倭の五王の系統のことです。(A)とも関連しますが、先生が七章の「朝鮮半島南部に流れついた倭人」をスルーされているのは、小生にとっては不本意です。僂韓=倭韓という仮説は、古代史学者に食い付いてほしかったテーマです。
(D)
「近年の考古学研究では、北部九州における稲作の開始は紀元前五〇〇年ごろとする説が有力視されていると聞いています」という点は、わたしも一七〇頁で同意見を述べています。ただ、「水田稲作には多くの労働力が必要とされるため、少数の渡来人だけで弥生時代を切り拓けるわけではなかった」ので、大規模な渡来の時期として、始皇帝支配の紀元前三世紀末が注目されるわけです。
(F)
先生に聞いてみたかった点です。先生は甲骨文字の「方」は、直接的には「敵対勢力」を指しますとされていますが、そうすると「召方」も敵対勢力とされていたことになりませんか? 納得できたら、「于方雷」が「于という敵対勢力の〔首長である〕雷という人物」という意味でも私説には大きな不都合はありませんので、ホームページにて訂正させていただきます。
(H)
『史記』には「誤解や創作された説話が大量に混入しています」という点は、宮崎市定『史記を語る』にも荊軻伝は「全体が一種の語り物、それも身ぶり、手ぶりを雑えた演出の筋書に外ならぬ」とあるのを承知していましたので、徐福が「王になったという淮南衡山列伝の話は当時の噂を記録したものであろう」と割り引いています。「白起が趙兵四十五万を生き埋めにしたというのも秦による誇張発表」とあるのは、先生の『古代中国の虚像と実像』を読んでいたのに、「生き埋めにして全員殺したという恐ろしい話が伝わっている」という中途半端な表現になってしまいました。「村ごと、徴用されるかもしれない」という倭人の不安心理を浮き彫りにさせる方向に流れたためで、反省点です。
(I)
睡虎地秦簡の噂は聞いていましたが、読んではいませんでしたので、この話ははじめて知りました。焚書坑儒も『史記』の語り物のひとつですが、その目的(政治経済社会を統一)からすれば、始皇帝は合理的で、費用対効果を計算できる政治家であったというように印象を改めました。
以上です。
(追伸で、ホームページに掲載したい旨、お願いしました)
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