小生の返書2主文
(落合敦思先生から、鳥越憲三郎氏の『古代中国と倭族』(中公新書)を本屋で見つけて今読んでいるところで、参考になるのではないかと手紙をいただきました)
鳥越氏の書は読んでいたのではないかと思って探してみたのですが、読んでいたのは『古代朝鮮と倭族』(中公新書)のほうでした。『古代中国と倭族』を求めて読みましたが、『古代朝鮮と倭族』と同じような感想をいだきました。
鳥越氏の現地調査を踏まえた民俗学的アプローチは貴重な知見であり、知的な興奮を覚えるものでありますが、長江流域の稲作民を倭族とし、彼らが雲南、インド・ネパール、インドシナ半島、インドネシア諸島にまで逃避行し、また、河川を下って朝鮮半島中・南部、日本にまで達したとする説は、ふろしきを広げすぎているという感じです。要するに、この移住民を東夷・南蛮の南下と理解するのならまだしも、すべてを倭族としてひとくくりにするのは、強い違和感が残るのです。倭族ではなく、長江族ではどうして駄目なのでしょうか。
漢族の東夷・南蛮の世界観に与しないという意気は理解できますが、漢族は『漢書』以来ずっと、それ以前の不確かな時期も含めて、倭人は東夷という認識をもっています。鳥越氏の倭族というパラダイムは、江上氏の騎馬民族征服王朝説ほどではないにしても、無理があります。二千年前の当時の人の記録は無視できないのです。
自己を中華と自尊して四夷を蔑視する漢族を、大量虐殺を繰り返す野蛮民族と見切り、漢族とは不倶戴天であるとして海に漕ぎ出した二千年前のわれらの先祖の判断は真っ当なものであったと小生は理解しています。
十二年前の出版時に『古代中国と倭族』も書店で手にとっていたはずですが、『古代朝鮮と倭族』と同旨なので買わなかったのではないかと思います。先生が本書にどのような感想をもたれたかはわかりませんが、小生の場合はこんな感想で恐縮です。
(F)
先生が甲骨文字の「方」は、直接的には「敵対勢力」を指しますとされているのは承知していましたので、小著では、雄族は「鬼方、虎方、人方、召方、盂方のように呼ばれ、......召方は殷王朝の西方の祭祀権を任されていたほどで、......召公は周公と並ぶ聖職者の地位にのぼった」と、挑発的に召方を取り上げたわけです。
白川静氏の『甲骨文の世界』(東洋文庫)に、「方とよばれるものは、いちおう王朝の秩序の外に独立した異種族の国家であったとみてよく、......方のうちにも殷と縁戚の関係を持つものも多く」とあるので、先生の「敵対勢力」とする説をどうしても斜めに見る気持ちがありました。
先の手紙で、「甲骨文字の初期には殷に服属し、中期に敵対して「召方」と呼ばれ、末期に再び服従し、最終的には殷を見限って周に服属し、......殷に敵対していない時期には「召」と呼ばれ、敵対している時期のみ「召方」と呼称されています」と、具体的時期を明示してお教えいただき、初めて納得しました。
今回、『甲骨文の世界』の「召方はかつて西史召といわれる殷の有力な与国であったが、このときすでに殷との関係が険悪となっていたのであろう」とある一文を読み返してみて、巨人として見上げていた白川氏の説は、時期によって召と召方が使い分けられていることにまで理解が及んでいないのであろうと解しました。
先生の『甲骨文字小字典』にも時期による召と召方の使い分けの説明がなかったので、眉につばをつけていました。召と召方が時期によって使い分けられているという説はこれまで読んだことがなく、「初期には殷に服属し、中期に敵対して「召方」と呼ばれ、末期に再び服従し、最終的には殷を見限って周に服属」したとする今回の私信により、この説は甲骨文を読み込んだ先生の創見であろうと今ではすっきりと理解しました。
先生が同書で「旧説には誤解や曲解が多い」とし、白川氏の漢字解釈は「文字を呪術に関連づける自説に拘泥したため、効率的な活用には至らなかった」と批判しているのは、今回の召と召方の場合と同じように、論拠があってのことであろうと深く納得しました。
よって、雄族が方と呼ばれていたとする自説は訂正させていただきます。
(I)
睡虎地秦簡の中国語資料を送っていただいたお気遣いに感謝します。
(A)と(D)に関しては、これ以上、申し上げることはありません。
(B)と(C)に関しては、先の手紙に「中国あるいは韓国からの渡航者が倭国を建設したことの論拠があるとのことですので、次回作を待ちたいと思います」とありますが、鉄板の「論拠」ではなく、あくまでも「仮説」であるとご理解いただきたい。
次作に対しても、日本史は専門外であるなどと遠慮せず、生意気な言い方ですが、正面から批判していただくようお願いします。
以上です。
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