日本人のルーツ汙国 地図と写真の解説
烏候秦水と汙国
鮮卑の王檀石槐は烏侯秦水の先に至ると、東方に軍を出して汙国(倭国)を撃ち、千余家を捕えた(『三国志』鮮卑伝)。
●『三国志』鮮卑伝の「汙(ua)国」(『後漢書』鮮卑伝の「倭(ua)国」)は『漢書』地理志の泗水国「于」(江蘇省北部)。
図は南京博物院の尹煥章氏らの淮陰地区の考古調査によって、新石器時代、西周、漢代の11箇所(1~7、12、14~16)の遺址が発見された古代の于夷半島の周辺(『考古』1963年1期)。
●前10世紀の青銅器(北京故宮博物院蔵)に刻まれた倭人の王「于方雷」。
2行目の中ほどが「于方雷」(雷の字は田が四つでその間を稲妻が走る形に作られている)。銘文は側面から底面にかけて鋳込まれているため、屈曲面にぴったり合うように紙に切れ目が入っている。
金文(前10世紀)の于方、『竹書紀年』(前4世紀)の于夷、『漢書』(1世紀)の于(uag)、『三国志』(3世紀)の汙(ua)、『後漢書』(5世紀)の倭(ua)。同一地域、同一母音、同一意の国名で系統がつながる。
●最古の刊本のひとつ、南宋の紹興刊本『三国志』目録の東夷最後は倭人ではなく「僂韓」。百衲本は紹熙刊本とされているが、魏志3巻と目録は紹興刊本で補われた。
僂は佝僂(=せむし)の意味で、于、汙、倭と同じく「かがめる、まるく曲げる」意味。『三国志』の韓伝に出てくる「倭韓」(左ページの4行目最初)はこの僂韓のことである。
(お詫び:最古の「写本」は最古の「刊本」に訂正しました)
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不躾ながら突然のコメントお許し下さい。
「最古の写本のひとつ」と書かれていますが、直後に「南宋の紹興刊本」と書かれていますので、「最古の写本のひとつ」は「最古の刊本のひとつ」の誤りではないかと拝察いたします。
また、「烏侯秦水」についての地図を掲げておられますが、「烏侯秦水」は中国の歴史地図にも現在の内蒙古自治区(東部鮮卑)中(現在の北京北東方向)に明記してありまして、掲げてある図中の位置にあるというのは初めてお聞きする話です。何か具体的根拠があればご案内いただきたく、よろしくお願いいたします。
hyena_no_papa殿
投稿通知メールがスパムフォルダに入っていて、気がつきませんでした。恐縮です。
「最古の写本のひとつ」とあるのは、直後に「南宋の紹興刊本」とあるように、「最古の刊本のひとつ」の誤りではないかとのご指摘ですが、汗顔の至りです。まったく違和感なく書き、読み返していました。自費出版のため、編集者のチェックを受けることができないまま進行してしまった次第です。
「烏侯秦水」は中国の歴史地図にも現在の内蒙古自治区(東部鮮卑)中(現在の北京北東方向)と明記されており、具体的証拠があれば教えてほしいというお問い合わせですが、第2章の「『三国志』の烏侯秦水と汙国」でその検証をしています。「ごあいさつ」でも簡単に触れていますが、具体的には黄河水利委員会の記録や『漢書』『水経注』の記録、現在の地学研究書などを参考に、歴史地図集のラオハ河説を批判したものです。