本書の触り 1

前漢武帝時代の烏侯秦水のさきがけ

 さて、檀石槐は湖の終着点の彭城(徐州)近くに至る。烏侯秦水の東西南北を数百里としているのは、自ら岸辺にそって馬で移動してその南端にまで至ったことを意味している。現在の微山湖の南岸には大山(一八〇メートル)をはじめ、いくつもの小さな山が連なっている。また徐州市の直ぐ西には覇王山(一九五メートル)、南には大禹山(二一六メートル)、東には黒山(二二八メートル)があるため、烏侯秦水は彭城が南限であったものと思われる。彭城から呂県にかけての泗水は山の谷間を蛇行して流れるため、北魏の(れき)道元(四六九~五二七)の『(すい)経注(けいちゅう)』によると、流れが激しく音をたてて波がくだけ散り、深さは三十(じん)(四七メートル)、波の飛沫は九十里(四〇キロメートル)も飛んだと伝えられていたという。これが伝説の烏侯秦水である。『水経注』は、その泗水もいつもの冬春は水が浅く流れは渋りがちであったという。冬の時期に雨が多かった年だけ烏侯秦水が現れ、彭城の東から泗水へ滝のように水が流れ落ちていたのであろう。

 前漢の武帝の元光三年(前一三二)、「黄河が瓠子(こし)(河南省濮陽)で()れ、東南のほう鉅野沢に注ぎ入り、淮水・泗水に通じた」とあり、その三六年前には一〇〇キロメートル上流の(さん)(そう)(河南省延津)で決れている(図7)。時の丞相の田蚡は自分の奉邑が黄河の北にあったために、黄河が決れて南にうつれば自分の邑が水害にあう危険がなくなると考えて、武帝に黄河の決壊は天事であると具申した。二十余年、決壊個所を塞ぐ工事はなされず、それが原因でしばしば不作が続いたために、ようやく工事が始められた。しかし、工事は難航し、それを悼んで武帝が作った歌が『漢書』溝洫志に記録されている(小竹武夫訳、ちくま学芸文庫3)。

  

浩々(こうこう)洋々と、大抵ことごとく河となる。

ことごとく河となりて地は(やす)きを得ず、

功(工事)の止む時なく、()山ために平らかなり。

吾山平らかにして鉅野沢溢れ、

魚は(ふつ)(うつ)と繁殖し、冬日ちかづくも水なおひかず。

......

(けっ)(そう)は水に浮かんで淮・泗の水満々たり。

  

 吾山は黄河の南、山東省東平湖の北にある山で、工事のために山が削られて平らかになったというのである。また齧桑は微山湖の西、紅蘇省沛県の南で、漢の高祖劉邦の故郷である。瓠子から吾山までは直線距離で一三〇キロメートル(三一〇里)、吾山から齧桑は一八○キロメートル(四三〇里)である。瓠子から吾山のふもとまで水があふれて、南の齧桑まで湖が続いていた。魚が繁殖し、水量が減る冬がちかづいても水なおひかずという武帝の歌は、檀石槐が見た烏侯秦水の描写と瓜ふたつ、みごとに一致する。武帝の時代の瓠子~吾山~齧桑の大水こそ、後の烏侯秦水のさきがけである。

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