本書の触り 2

『漢書』の于と『竹書紀年』の于夷

 そして『漢書』の于は、さらに『(ちく)書紀(しょき)(ねん)』の()()につながる可能性が高い。『竹書紀年』は西晋の咸寧五年(二七九)に河南省(きゅう)県の墓から発見された、戦国時代(尾形勇/平隆郎『中華文明の誕生』中央公論社)の歴史書で、竹の札に書かれていたのでこの名がついた。陳寿をとりたててくれた(ちょう)()の政敵であった荀勗(じゅんきょく)らが整理したが、のちに散佚した。『後漢書』東夷伝の序にこの『竹書紀年』を引用した記事がある(『東アジア民族史』1、井上秀雄訳注、東洋文庫)。

  

 〔『礼記』の〕王制篇に、「東方のことを夷という。夷とは根本の意味である」と。その意味は、めぐみ育て生命を尊重することで、万物は土地に根ざしてできるものである、と。それゆえ、〔東方諸民族は〕生まれつきが従順で、道理をもってすれば容易に治められるといい、君子の国や不死の国があるとさえ言われる。

 東夷には九種類あり、(けん)()・于夷・方夷・黄夷・白夷・赤夷・玄夷・風夷・陽夷という。そこで、孔子は、これらの九夷とともに居住しようと望んだ。

  

 清の朱右曾(しゅゆうそう)輯録、(おう)国維(こくい)校補の『古本竹書紀年輯校(しゅうこう)』によると、()后相(こうしょう)元年(前二一世紀)に(わい)夷の畎夷を征し、翌二年、風夷及び黄夷を征した。后は古語で君主の意味である。さらに七年に于夷が来賓したとある。そして后(ふん)三年(前二〇世紀)に「九夷来御」の記事がある。御は天子のそば近く仕えてその言いつけに従う意なので、九夷が揃って服従して世の中が平和になったことを意味している。元の記事は部分的に『太平御覧』他に残されているものである。

 王国維の『今本(きんぽん)竹書紀年疏證(そしょう) 』には周の成王一〇年(前一一世紀)に「越裳氏来朝」、同二五年に「四夷来賓」とある。この四夷の実態は不明であるが、このなかに于夷が含まれていれば、王充の『論衡』にある「成王の時代に越裳氏が雉を献上し、倭人が暢草を貢物とした」という伝説につながることになる。ただし、今本は後代の資料による偽書とされるため、王充の『論衡』の伝説を裏付ける資料とすることはできない。逆に王充の『論衡』の記事から、今本のこの記事が作られたのかもしれない。

 王充は『論衡』恢国篇で「越は九夷にあり」としているし、九夷と倭を別々に論じていて、両者につながりがあるという認識はもっていない。『後漢書』東夷伝序に「淮水・泗水〔地方の〕夷はすべて分散し秦の民戸となった」とあるように、二百年後の王充の時代にはすでに九夷の具体的なイメージは失われていたものと思われる。

 九夷の名には黄夷・白夷・赤夷・玄夷など、数合わせで付けられたかに思われるものもあり、実在を疑う説もある。しかし九という数字は数が多いという意味で使われているのであり、百越の百と意味は同じである。のちにも触れるように、周代初めの東夷・南夷は実際には二六夷であった。具体的な記事が残る畎夷・風夷・黄夷・于夷は実在していたと考えられる。九夷を架空の存在とすると、九夷の存在を前提とした孔子の発言が理解できなくなるからである。

 于夷以外の他の淮夷がその後どうなったかは『漢書』地理志から窺うことはできない。畎夷・風夷・黄夷が征服された記事があるように、淮夷の多くは民族としてのまとまりを失い、漢民族の支配下に組み込まれていったものと思われる。淮夷の居住地であったと思われる淮水下流域の東海郡、臨淮郡、沛郡には『漢書』に県名が記載されていて現在では所在がわからないものが二一もあって二割を越える。于を入れれば二二である。漢族が多数住んでいた地域には不明県名がほとんどないことからしても、淮水下流域は山東半島、朔方地方(并州)と並んで特異地域である。于夷は征服された記事がないので、漢代になっても民族としてのまとまりを失わずに残っていたのであろう。無理に攻めるまでもなく、「容易に治められる」習性が強かったのであろうか。この「淮水・泗水〔地方の〕夷」の一種の于夷が泗水国の于として『漢書』に記録が残った。淮夷の末裔の最後の記録が『三国志』の汙国である。

 孔子は『論語』()(かん)篇で九夷に言及している。『韓非子』説林篇、『墨子』非攻篇、『淮南子(えなんじ)』斉俗訓、『(ぜい)(えん)』弁物篇、『史記』李斯列伝、孔子世家、『漢書』地理志にも九夷は現れる。これらは、場所を特定できない『(らい)()』のような使い方と違い、いずれも東夷地域を念頭においた使い方がされている。『淮南子』斉俗訓は「越王句踐は......南面して天下に覇たり。泗上の十二諸侯、皆九夷を率いて以て朝す」(楠山春樹訳、明治書院)と、孔子の教えを受けた泗上の十二諸侯、泗水流域と九夷の関係の深さを強く示唆している。成立は漢代になるものもあるが、いずれもその内容は戦国時代までのもので、秦の統一以後九夷は記録に現れなくなる。

 そして九夷は殷周の金文にも一度も現れないのである。青銅器は戦国時代にも作られてはいるが、隆盛は春秋期で終わる。『殷周金文集成引得』(張亜初編著、中華書局)によると、この間の金文の銘文は一万二千件(別の採拓者による同一銘文の重複拓本も含む)にもなるが、九夷は一例もない。『竹書紀年』の九夷の表記も、過去の記録を当時のことばで再編したものと思われる。九夷という用語が現れるのは戦国時代だけで、記録に残る九夷の初出は、春秋末の孔子によるものである。これらの九夷は『竹書紀年』の后相元年の記事、先の諸書からして淮夷であることは明らかで、『漢書』の于が淮水と泗水が合流する泗水国にあるのも、偶然の一致とは思われない。譚其驤氏主編の『中国歴史地図集』(地図出版社)第一冊が戦国時代の淮水下流域を九夷と表記しているのも、これらの書を根拠にしているものと思われる。

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