ごあいさつ
大きな書店に行けば、邪馬台国をはじめ古代史の本は読みきれないほど棚に並んでいる。しかし、古代史はどうも精神衛生上良くない一面があって、事件の解決がつかないまま終わってしまう推理小説を読まされたような気分になることがある。専門の諸先生方の研究は学問的厳正さを求めてどうも歯切れが悪く、専門分野のタコ壺にたてこもっているという不満が募るのである。痒いところを掻いてくれないのである。なかなか印籠を出さない水戸黄門を見ているようなものである、と言ってもよい。わたしは日本人がどこからきたのかを知りたいのである。
かくして、自分で調べるしかない次第となった。
中国の春秋戦国時代、淮水と泗水が合流する地域に住んでいた倭人たちは、紀元前3世紀に秦の始皇帝が中国全土を支配すると、かなりの数が海に追い落とされて朝鮮半島南部、北九州へと渡り着いた。『漢書』地理志に于、『三国志』鮮卑伝に汙国、『後漢書』鮮卑伝に倭国と記録が残る地域に住んでいた人々がその倭人たちである。鮮卑伝に出てくる倭人は当然ながら中国大陸にいたはずである。汙はua(ワ)という音であったが、のちに汙の発音がo(オ)に変化してしまったために、同じくua(ワ)の発音の倭に置き換えられた。発音が大きく変化していく背景にあるのは、民族の入れ替わりである。
于(夷)は九夷のうちの一種で、孔子の身近にいたことが『論語』から窺える。『論語』子罕篇は「九夷とともに暮らしたい」という孔子のことばを記録し、『論語』憲問篇は「原壌夷して俟つ(夷人らしい姿勢で待っていた)」と記録し、孔子の幼なじみの原壌が東夷の人であったと明らかにしている。「夷す」というのは蹲踞の姿勢のことで、范曄は『後漢書』倭人伝において蹲踞を倭人の習俗としているから、原壌は于夷(倭人)であったことになる。
しかし置き換えられる字が変わってもその呼び名(発音)は変わらなかったし、この種族を指すために使われた文字は于、汙、倭と、一貫して背中が曲がる意味をもっていて、お辞儀をする習性をもつ人々を指す言葉であることに変わりはなかった。
現存する『三国志』の最古の刊本のひとつ、南宋の
紹興(12世紀)刊本の東夷伝の目次は「馬韓、辰韓、弁韓、僂韓」となっている。僂は「かがめる、まるく曲げる」意味で、この字も倭と同じ意味なのである。そして、この「僂韓」は『三国志』韓伝に記録が残る「倭韓」のことではないかという仮説は、日本古代史の根幹を揺るがす問題となる可能性がある。
渡来人が日本列島に稲作文化をもたらし、弥生時代を切り開いた事実に疑いはない。稲作をもたらした弥生人が中国大陸から渡ってきた事実が動かないとすると、弥生人のルーツが中国大陸の稲作地帯にあったとする仮定もまた動かないことになる。彼らが中国大陸のどこにいたのか究明するのが本書の目的である。
ふたつの指標によってその範囲を絞り込むことができる。ひとつは稲作である。稲作こそ弥生時代の象徴であり、日本文化の基本になった。のちに述べるように、中国には稲作の起源を黄河下流とする説もあるが、現在でも長江流域が水稲の中心地であることに変わりはない。ましてや古代における稲の耐寒性が低かったことを考えれば、いくら当時が温暖だったとはいえ、古代の稲作は黄河が北限だったとする説が有力なのは当然である。稲作をしていた倭人たちは黄河の南側にいたはずである。
もうひとつの指標は気温である。遼河流域を故地とした鮮卑は、後漢時代、北京周辺の河北省、山西省を支配下におさめ、たびたび黄河を越えて南下した。のちの五胡十六国の時代には前燕、後燕、南燕と黄河の南側に国を建てるが、淮水を越えて南下することはなかった。騎馬民族の鮮卑が淮水を越えられなかった理由はひとつ、淮水が凍結しないためである。
そうすると、鮮卑に襲われて大量の捕虜を連れ去られた記事が残る倭人の国は、とうぜん淮水の北にあったことになる。つまり、ふたつの指標によって、大雑把にいえば黄河と淮水に挟まれた区域のどこかに倭(汙)人の国があったことになるのである。
光和3年(180)、鮮卑によって倭人が千余家連れ去られたのは、烏侯秦水で倭人に魚を獲らせるためであった。烏侯秦水は前漢の武帝の時代にも20年間余り現れたことが『漢書』溝洫志に記録されている。烏侯秦水の場所がわかれば、その先の倭国の位置も明らかになるはずである。
汙人(汗人)=倭人、汙国(汗国)=倭国であるというのが『後漢書』の范曄の説である。わたしは范曄の説を一歩進めて、汙国は『漢書』地理志の泗水国にある于ではないかと仮説を立てた。于と汙が音通であるからである。
日本人のルーツは東南アジアとか東北アジアとか大雑把に推定されてきただけで、このような狭い地域が日本人のルーツとして特定されたことはこれまでなかったはずである。そこは古代の于夷半島とも呼ぶべき地域であった。後の『三国志』の汙国である。最近のDNA研究が示しているように、江蘇省北部は弥生人のDNAと共通するパターンをもつ古人骨が発見されて注目される地でもある。
定説を読みたい人は、時間のむだなので、ほかを当たってほしい。宮崎市定氏は『謎の七支刀』(中公文庫)で、氏の説が日本古代史学会から「完全に無視されてしまった」という。推して知るべしかもしれないが、根拠は明示されているから、ひろく叩き台としてその是非を論じていただきたいものである。
(お詫び:最古の「写本」は最古の「刊本」に訂正しました)
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