本書の触り 5
金官国王一家の投降と倭王一家の滅亡
為哥可君は君という尊称からして倭国の王族であったものと思われる。おそらく河内直の先祖は倭国の王族から出ているのであろう。河内直の先祖たちはみなよこしまな心を懐いて人をあざむき、為哥可君もその言葉を信じて、国の災難を心にかけず、放逐されたとある。「国の災難・放逐」とは何を意味するのか。
継体天皇の崩御を記す二五年の記事に続いて、『百済本記』の記事が割注で引用されている。
ある本には、天皇が二十八年歳次甲寅にお崩れになったとある。それなのにここに二十五年歳次辛亥にお崩れになったとするのは、『百済本記』によって文をなしたものである。その文には、「太歳辛亥の三月に、百済の軍は進んで安羅(任那の一国)に至り、乞乇城を築いた。この月に、高麗(高句麗)ではその王安(安蔵王)が殺された。また聞くところによると、日本では天皇及び太子・皇子がそろってなくなったということである」とある。これによると、辛亥の歳は二十五年にあたる。後世考究する人が、いずれが正しいかを知ることであろう。
この記事は辛亥の変と呼ばれ、これまでいろいろな説が出されている(大橋信弥『新視点・日本の歴史』2、新人物往来社)。継体の没年を二五年とすると、安閑の即位(五三四)まで二年間の空位があったことになり、継体・欽明朝に内乱があったというのである。継体の没後、安閑・宣化朝と欽明朝が並立していたとする林屋辰三郎氏の説は、日本では太子制が成立するのがずっと後代である点が問題であるし、安閑・宣化・欽明紀の記事には二朝並立の緊張感がうかがえない。ここにある天皇とは『百済本記』が日本に関連づけて書き換えたもので、もともとは倭王と記録されていたものと思われる。
また、三品彰英氏は百済の暦に二種類あったために二年間の空位がおこっただけとしているが、『日本書紀』の編者がこの空位になんの辻褄合わせをしていない点もひっかかるのである。さらに「後世考究する人が、いずれが正しいかを知ることであろう」と謎かけのような言葉さえ書き加えられている。この中国人の編者はなにかを知っていて、その事実を書くことが許されなかった事情があったのではないか。
倭王・太子・皇子がそろってなくなったとあるからには、おそらくクーデターによって、全員が殺されたのであろう。継体紀二三年(五二九)条に、新羅が南加羅・喙己呑の再建を天皇に命じられた記事があるが、新羅の上臣伊叱夫礼智干岐は三千の兵を率いて三ヶ月も居座り、多多羅など四村を掠奪している。『百済本記』によると五三一年、百済は安羅にまで迫り、城を築いている。倭国は国力が弱まり、百済につくか新羅につくか、あるいはどことも同盟せずにあくまでも独立を守るかで国論が割れていたものと思われる。『百済本記』によると、為哥可君は百済に敵対する新羅勢力の言葉を信じて、国の災難を心にかけず、ついに放逐された。国の災難・放逐と倭王・太子・皇子がそろってなくなったという記事は同じことを言っているのではないか。
この事件の翌年(五三二)、「金官国王の金仇亥が、王妃および三王子──長男を奴宗といい、次男を武徳といい、末子を武力といった──とともに国の財物や宝物をもって来降した」と『三国史記』は伝える。金官国の王族は上等の位を授けられ、本国はその食邑として与えられた。末子の武力は新羅王朝に仕えて、のちに角干にまで昇進した。金官国王や三王子と同じように、倭王・太子・皇子も新羅に投降しようとしていたのではないか。百済が「よこしまな心を懐いて人をあざむき、為哥可君もその言葉を信じて」と非難する記事の具体的内容とはこれだったのではないか。そうだとしたら、反対勢力がクーデターにうってでたのもうなずけるのである。
反対派のクーデターは成功せず、混乱が深まっただけに終わったようである。国王・太子・皇子を失った倭国は統一を失い、ますます国力を弱めた。安羅の倭臣の河内直らの努力は新羅と百済の領土分割戦争のなかで潰えていく。しかも任那復興を名目に任那・倭国の残存勢力の結集をはかった百済の聖明王は、五五四年、管山城の戦いで新羅の前に敗死した。そして五六二年、任那全域が新羅に降った。
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